1~2年くらい前、たぶんこの辺だったと思うんだけど、親のことで愚痴ったことがある
3、4才の頃鼻血が出るまでよく殴られたとか、弟だけ幼稚園に入れてもらえたとかそんな話

果物を送ってやるとか何とかいうメールが来て、弟巻き込んで面倒臭いやり取りの末、内緒で引っ越してたことや、職を変えてたこと、資格取るために夜間の学校に通ってたことがばれた

両親は私に会えないので弟の所へ話を聞きに行き、弟は私に許可を得て、とりあえず事実だけを話した。弟によれば、非常にショックを受けていたらしい

何も知らされてないなんて、娘にそこまで嫌われてるとは思ってなかったようだでもその数ヶ月後の親戚の法事では普通に話しかけてきやがったんだけどね
従兄弟達が子沢山のおかげで、総勢約10名のお子たち(甥姪含む)の世話にかまけてガン無視したが

弟たちは、基本的に親とは仲がいいが、私と親との諍いでは私の側に立ってくれてた。
両親の暴力・暴言、ネグレクトは父の仕事が安定しなかった若い頃が一番激しく
年を重ね収入が安定するに従って落ち着いていった感がある

父からは「お前達は動物と一緒だ、だから殴ってでも躾けるんだ」とドヤ顔で言われた記憶があり
母は私が女の子らしいことに興味を持つことに非常に嫌悪感を示し、否定し続けた

結果長子であり、唯一の女児である私が、一番長く、一番理不尽な扱いを受けたことになる
上の弟は親の暴力の激しかった頃をおぼろげに覚えているのだろうし、下の弟はその辺ピンと来ないまでも、親が激昂したときは必ず私に庇われたことが今でも印象深いそうだ

弟たちが独立したあとも、私はしばらく実家に残って事故で足を悪くした母に代わって家のことをほとんどやっていた
化粧品やら自分の物を買うのにパートもしていたが、ささやかな給料の大半は家賃として徴収された

家を出たのは両親が退職後、母が休みながらなら家事もできること、父親が母の介助要員として戦力になることを確認した後だった
パートを辞めるときに勤め先が用意してくれた僅かばかりの退職金が、引っ越し費用になった

その後はフルタイムで働きながら大学に入り直し、卒業後はとある国家資格を得るために養成科に通い出した
弟たちは結婚し子供が生まれた後も両親とそれなりにうまくやっていたが、私はその間ずっと、ほぼ完全に接触を断っていた

家を出たのは、親を見限ったからだ
もう二度と和解のチャンスは与えない、ということ
いろいろ最後まで、本当にいろいろ頑張ってみたつもりだけど、もう終了、と思った

今まで何度も何度もそういう機会はあったし、若い頃は涙ながらに辛いと訴えたこともあったけど
その機会を全て悉く、こいつ何を言ってるのという顔で潰してきたのは彼ら自身だ

あの人達は一生私を理解できないまま、一生私に許されないまま死んでいく
後でやり直そうと思ったとしても、そんな機会はもう一生与えない
娘の一生踏み躙ったんだから、娘から一生許されないくらいのペナルティは妥当だろう
私自身もあの人達と和解できないままあの人達を失うわけだが、そのくらいの代償は構わないと思った

本人達に悪意はないから、急に連絡を絶つと心配だとか言って騒がれそうなのが嫌だった
職を変え、引っ越し、携帯を変え、そのたびに弟にだけは新たな連絡先を教え親には教えず……
というのを繰り返し、すこしずつ、気付かれないように疎遠にしてゆく予定だった
今回はバレたけど、今度は事前に弟にも根回ししていずれ逃げ切ろうと思ってた




そして、母が死んだ

法事の1ヶ月後に調子が悪いと病院に行き、その1ヶ月後に入院し、その2ヶ月後には息を引き取った
珍しい難病で、治療法も見つからないまま、あっという間の最後だった

作り話みたいだよね
別に作り話でもいいんだけどさ

父や弟から毎日のように病状を知らせるメールが届いてて、状況が悪いのは分かってた
でも入院したのは国家試験直前だったし、その後も卒業まで実習だの何だの過密スケジュールで忙しい、を言い訳に見舞いはおろか、メールすら一切返信せず無視し続けた

だんだん病気に勝ち目がないことが分かってきた頃、下の弟から遠慮がちな電話があった
無理にとは言えない、でも、もし可能なら、会いに行ってやれないか、と
すごい嫌だったし、その時はうーんと言葉を濁したけど、これが最後になるかもっていう予感はあった
最後に私のこと、どう思ってるのか聞いてみたいと思った
少しは罪悪感とかあったのかよと

結局学校の合間、たまたま午後に時間ができた日、入院先へ向かうことにした(国試は終わったあと)
話してみても、きっとまた無神経なこと言われて腹が立つだけじゃないのか、的外れな答しか返ってこなくて結局がっかりして帰ることになるんじゃないか、でも それで失望して、やり切れないまんま終わりを迎えることになったとしても、それはそれで人生だなと思った
ある意味腹をくくった

私が来るとは思っていなかったらしく、母はずいぶん驚いていた
コートとか脱いだあとこっちもどうしたものかと思って突っ立ってたら、母は私に向き合ってまず「お前には悪いことをした」と言った

涙声で、「初めての子で育て方が分からなかった」「やり方を間違った」「辛い思いをさせた」
私が最期の別れに来たと思ったんだろう
「お母さんは大丈夫、まだ死なないから」と「悪かった」をずっと繰り返してた

私はまだ学校が忙しく(実習が始まるタイミングだった)、今日もすぐ帰らなければならないこと、今後も当分来れないことだけ告げて、すぐに病室を出た

帰りの電車で少し泣いた
行ってよかったと思った

電車の中で思ったのは
母の言う「(私にした)悪いこと」と、私が両親からされて「もう取り返しが付かない」「やりなおしもきかない」と思ってることは、たぶんかなり食い違ってる

この先何度会ってもきっと噛み合わないことだらけで、話すたびに嫌な思いさせられて、話すたびに苛々して、酷いこと言われて理不尽なことされて、何度も悔し泣きするハメになるんだろう

だから結局、距離を置いた方がいいのは変わらない
許したのか、と言われると、たぶんやっぱり許してない
でも、ずっと欲しかった言葉ではあった
心の中で、どうしようもなくグッチャグチャに吹き荒れてたグチャグチャな何かが、確かにあの一言でだいぶ凪(ナ)いだ

私はあの人達に付けられた心理的精神的なトラウマやら欠損やら欠陥やらを一生抱えて生きなきゃならないわけだが、それを受け入れるのに、ほんの少し、少しだけ気が楽になったと思う

その2~3週間後には母は喋ることもできなくなり、医師からは命の期限が告げられた

医師の見込みよりはだいぶ粘って、母はその更に2週間後になくなった
私の国家試験合格発表翌日という、見事なタイミングだった

私は国家資格を手に入れて、今それに関連した仕事をしている
母の遺産は(大した額じゃないけど)兄弟で分け合うことになって、私の場合は学費の返済と職場近くへの引越資金になった
あの一言がなかったら、あの人の遺したモンなんか、気持ち悪くて欲しくもないわ!ってなったと思う

父とは法事の打ち合わせなどで多少はやり取りするようになった
以前ほど苦痛ではないけれど、適度に距離を置こうとは思ってる
苦しいし、しんどいのは変わらんけど前よりはマシに立ち回れるようになったような気がする

弟たちは割合穏やかで冷静だけど、やっぱり普通に母親の死が悲しいみたいだ
私1人「いい別れ方ができた」みたいにすっきりしてて我ながら薄情だなとも思うし、娘に死を悼んですらもらえないってのは、母にとっちゃ残念だろうが因果応報だよなーとも思う

↑半年くらい前、何かどっかに書き込もうと書きなぐったやつです。結局踏ん切りが付かずに眠ったままだった

今なら何かいけそう、と急に晒す気になりました
一周忌も過ぎてだいぶ経って、ざわついてた気持ちも落ち着いてきたんかな

意味もない吐き出しです
長々と済みません(少しすっきりしました)
今がしんどい方も先が見えない方も、いずれ平穏が訪れますように


89 :名無し2016/04/17(日) ID:CvM
何を書いても構いませんので@生活板 23