戦闘機

12/07/28
オレが小学生のころに聞いた、先生の体験談を書きます。話してくれたのは、家庭科の老先生だった。当時、小学校に上がる前だったそうだ。

地元では有名な事件。

1945年の7月某日、傷病兵や動員された学徒など1000人以上で満員だった列車が、米軍艦載機の攻撃を受けた。




いまネットで調べると、艦載機40機による、30分にわたるすさまじい無差別攻撃だった。赤十字のついた、傷病者の車両も攻撃された。

なんでも、走行中の列車に突然上空から戦闘機がたくさん飛来し、機関銃(おそらく12.7mm機銃)で撃ちまくられた。

列車の中はパニックになって、列車が止まると他の乗客と同じく、両親ともに車外へ逃げた。

そこへ、艦載機の攻撃が再び来た。逃げまどう人々に、容赦なくあびせられる弾丸・・・。機関銃が、きれいな間隔で地面に土煙を上げていた。

ネットで見たことがあるが、12.7㎜の弾丸で撃たれると、1発でも人間の体は真っ二つにちぎれ飛んでしまう。

地獄だった。そう先生は言っていた。わかる。そんな弾が雨のように降ってきたらどうなることか・・・。


先生が生き残ったのは、奇跡的だった。両親とはぐれた先生が懸命に探そうとして走ろうとしたとき、誰かが足をつかんだ。

おそらく撃たれてのたうちまわった者が反射的につかんだのだろう。その拍子に先生は転んだ。そのとき、

どどどどどどどどどどどどどどどどど

そんな音を立てて目の前に土煙が並んだ。そう、転んでいなかったらミンチになるところだったのだ。

だが、先生のご両親は、その銃撃の犠牲となった・・・。

夏になると、この話を思い出します。オレが幽霊よりも生きた人間のほうが恐ろしいと感じるのは、たぶんこの話がこびりついているからかもしれません・・・。


大山口列車空襲事件

鳥取発出雲今市(現在の出雲市)行きの下り第809列車は蒸気機関車C5131牽引、次位に廻送機関車48690、客車11両の編成であった。この列車の前2両は増結された病客車(この車輌に赤十字標章が大きく描かれていた)で、呉海軍病院三朝分院を転退院する軍・工廠関係者と付添いの衛生兵、日赤救護看護婦が乗り、他の一般客車は、チ号演習(沿岸防備のための塹壕掘りなど)に動員された国民義勇隊、勤労学徒、軍需工場徴用者、一般乗客等、合計約1200人で超満員であった。

第809列車が午前7時15分、5分遅れで大山口駅に到着した際、上空をアメリカ海軍艦載機が旋回しているのを駅長が確認し、第809列車は駅の東側600mにある上野集落付近の切り割り区間に待避。その後一度駅に戻って全乗客の3分の1にあたる約400人を降ろしたが、再度上空に敵機約40機が現れたため先程の切り割り区間に退避した直後、一斉に機銃掃射並びにロケット弾にて約30分間連続攻撃を受けた。

被害は編成前部に集中。本務機関車と廻送機関車が銃弾により小損害を受け乗務員に被害はなかったものの、病客車を含む客車の前3両には機銃とロケット弾による攻撃が集中し、死者44名、負傷者31名以上という甚大な被害を受けた。また近隣の上野集落の民家も被災し、全半焼3軒という被害も出している。

その後、列車は車内の死傷者を除いて乗客のすべてを付近の森陰に降車待避させ、本務機関車の損害のため全車両を牽引できなくなったため、後5両を現場に留置して前6両を牽引、大山口駅を約2時間遅れで発車した。伯耆大山駅到着後に再び空襲の危険が迫ったため淀江駅方向へ後退、壷瓶山(標高114m)の麓にある日吉神社前に退避。欠水したため救援機関車を要求し約3時間半の遅れで午前11時20分に米子駅に到着した。

出典:Wikipedia